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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(5)

『春日局』は、『お振』という娘に、男装させて、『徳川家光』の所に行かせました。すると、 1637年、将軍『徳川家光』が33歳の時、最初の子『千代姫』が、産まれました。 しかし、『お振』は、すぐに死亡して、男子を生むことが出来ませんでした。ある時、紫衣に包まれ少年のように清々しい公家『六条有純』の娘が、伊勢内宮社・慶光院17代院主となったので、挨拶に来た時、『徳川家光』は、見とれていたそうです。そのた...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(4)

将軍は、後継ぎをつくるのも仕事だったので、将軍『徳川家光』は、1623年の19歳で、正室『鷹司孝子』と結婚しましたが、結婚当初から、その仲は非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無で、ほぼ軟禁生活を強いて、冷遇したそうです。将軍『徳川家光』33歳の時まで、子供が出来なかったそうです。でも、なかなか子供が出来なかったのは、仲が悪いと言うだけではなく、理由がありました。戦国時代、女性は不浄なので、出陣の前...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(3)

『徳川光圀』の父『徳川頼房』は、若年の頃、異様な衣服や刀を纏い、傍若無人な振る舞いをしていたので、そのままにすると、幕府が、譴責を加えると通達がありました。そのため、『徳川頼房』の守役『中山信吉』が、一命を懸けて、諌言したので、真面目になったそうです。その父の遺伝か、『徳川光圀』は、若い時は、やんちゃだったそうです。例えば、処刑された罪人の重い生首を、引きずりまわしたり、洪水直後の墨田川を泳いだり...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(2)

水戸徳川家で、尾張と紀州の嫡男が生まれた後の、1628年に生まれた3男『徳川光圀』を、長男を差し置いて、嫡男としたそうです。何故、『徳川光圀』が、嫡男とされたのかと言うと、別段、優秀だったからと言うのでは、ありませんでした。1632年に、『徳川光圀』を預かる『三木之次』が、『徳川頼房』に、「『長丸(千代松)(徳川光圀)』は、殿(『徳川頼房』)の子なので、認知して下さい。」と願い出たそうです。実は、...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

大阪に住んでいた時、
ジュニアリーダーをしていたので、
キャンプなどの指導などをしていました。

旅が好きで、バイクや車で
北海道や東北、関東などを、

野宿しながら、放浪しました。

そして、
海外14カ国を、放浪し、

海外の複数の動物園や水族館で、
研修しました。

詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。

先祖は、足利尊氏と戦い、
多々良浜の戦いでは、
敗戦しましたが、

筑後川の戦いなど、
最終的には勝利し、

3代将軍足利義満まで、九州を治め、

中国の「明」と、貿易をしていました。

詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

筆記試験の時は

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖は笛が得意で、
後白河法皇、後鳥羽天皇に、
褒められた事があります。

自分も、子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、色々な事を書いていますが、
話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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