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記事一覧

藤原氏と陰陽師と天皇(7)

当時、藤原氏は、天皇即位に関して、大きな影響力を持っていました。だから、藤原一族間の争いにより、天皇が代わりました。ちなみに、『花山天皇』は、太政大臣『藤原伊尹』の外孫だったので、叔父の『円融天皇』が即位した時、『円融天皇』の実子がいたのですが、朝廷第一の実力者『藤原伊尹』の力で、次期皇位継承者の皇太子『師貞親王』になり、そして、『花山天皇』になれたそうです。ちなみに、『花山天皇』の父親は、『円融...

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藤原氏と陰陽師と天皇(13)

『藤原兼家』の権力は、長男『藤原道隆』に引き継がれ、朝廷随一の実力者になっていました。そして、『藤原道隆』は、嫡男『藤原伊周』の強引な官位引き上げをしました。そのため、『藤原伊周』は、段階をえず、叔父『藤原道長』らを、一気に飛び越えて、内大臣に昇進していたので、苦労・怖いもの知らずで、周囲を見下していました。周囲の人々は、反感を持っていましたが、『藤原道隆』の権勢が強かったので、黙っていました。そ...

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藤原氏と陰陽師と天皇(14)

『藤原道長』が頭角を現してきたのは、『一条天皇』の母で、『藤原道長』の姉である『詮子』が、関係していて、『藤原伊周』の母の女流歌人として「女房三十六歌仙」にも選出された当代きっての才女で、誇り高かった『高階貴子』の事が、大嫌いだったからです。なぜなら、高階一族は、学者の血筋で、高い教養を持っていましたが、末流貴族にすぎなかったのに、『藤原道隆』が、妻の実家の高階一族を優遇したので、あっという間に、...

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藤原氏と陰陽師と天皇(16)

『藤原道長』の姉の皇太后『詮子(東三条院)』が病で倒れました。その頃、『藤原道長』は、『藤原伊周』が、何か密教の修法を行っていると耳にしました。『藤原道長』は、いい機会が来たと考え、「皇太后『詮子』の調子が悪くなったのは、『藤原伊周』の呪詛によるものだ。」との噂を流しました。すると『藤原伊周』が行っていたのは、『藤原伊周』の妹の中宮『定子』が、『一条天皇』の御子を妊娠していたので、安産の為の祈願で...

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藤原氏と陰陽師と天皇(17)

『藤原伊周』は、勅命ではないのに「大元帥法」を、密かに行ったとして、十分噂が広まったので、『藤原道長』は、政敵を葬る機会を得ました。そして、「花山院闘乱事件」、「東三条院呪詛」、「大元帥法」の3つの罪のため、『藤原伊周』、『藤原隆家』は、配流と決まりました。しかし、『藤原伊周』、『藤原隆家』は、配流の宣旨が下ってから、病気を口実に出立を拒み、安全と思われた中宮『定子』の居る中宮御所に、逃げ込んだそ...

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藤原氏と陰陽師と天皇(18)

検非違使の役人たちが、中宮御所にやって来ました。中宮という尊位にある女性が、衆目の前に姿を晒すなど、常識では考えられない事なので、御所に乗り込んできた検非違使の役人たちも、中宮『定子』の姿を見て動揺したそうです。『藤原隆家』、と『高階信順』は、そこで捕らえられました。『藤原伊周』は、外敵や悪疫が侵入することを防ぎ、火難除けの神『愛宕権現』を祀る「愛宕神社(阿多古神社)(愛宕さん)」で、有名な霊山「...

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藤原氏と陰陽師と天皇(19)

『一条天皇』は、出家しても、皇后宮『定子』が好きだったので、宮中に迎え入れたいと考えていました。しかし、出家後の后の入内というのは、異例であるので、例え天皇でも、内裏の中へ正式に入れる事が出来ませんでした。そのため、別宅を準備し、人目を避けて、夜遅く通い、夜明け前に帰るという事をしたそうです。『藤原道長』は、長女『彰子』を、『一条天皇』に、入内させていました。『彰子』を、立后させたいので、色々と手...

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藤原氏と陰陽師と天皇(20)

皇后宮『定子』は、『敦康親王』、『媄子内親王』を産みましたが、その後、、間もなく、皇后宮『定子』は、崩御されたそうです。中宮『彰子』は、12歳前後で入内したので、若い事もあり、なかなか御子を産みませんでした。そのため、中宮『彰子』に御子が授かるように、『藤原道長』は、霊場として人気があった、吉野の「金峯山寺」に御岳詣に行く事にしました。「金峯山寺」の御岳詣は20-1000日、肉食を断ち、行いを慎ん...

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藤原氏と陰陽師と天皇(21)

その後、中宮『彰子』が、御子(後の『後一条天皇』、『後朱雀天皇』)を産むと、『藤原道長』は、『敦康親王』を邪魔に思うようになり、邪険に扱うようになりました。中宮『彰子』は、『敦康親王』を大変可愛がっていたので、態度が急変した父『藤原道長』に、反感を持ったそうです。ちなみに、『敦康親王』は、『藤原道長』の嫡男『藤原頼通』とも、ものすごく親しかったそうです。そのため、『敦康親王』が20歳で死亡した後、...

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藤原氏と陰陽師と天皇(22)

『高階貴子』は、自分の子供たちが、中宮や内大臣になり、栄光の頂点だったのが、夫『藤原道隆』の死後、暗転し、不幸になっていくのが、耐えられず、また、心の支えとした息子たちが、遠く離れていくことに不安を感じ、自分の息子『藤原伊周』らの配流先まで、ついて行こうとして、乗っている車にしがみつきましたが、朝廷は、許しませんでした。その後、『高階貴子』は、病気になり、子供たちの安否を心配しながら、死んだそうで...

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藤原氏と陰陽師と天皇(34)

『藤原道長』は、有力な兄がいた時は、さほど目立たない存在で、権力を持つ事を、あきらめていたので、豪放で細かい事を気にしない性格でしたが、兄たちが死んで、権力を手にしてからは、調子づいて、万物は自分の為にあると考えるようになり、傲慢になりました。それは、ボクシングの元世界2階級王者で、亀田三兄弟の次男『亀田大毅(浪速乃弁慶)』さんと同じです。『亀田大毅』さんは、ボクシングに関しては、兄や弟と比べると...

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藤原氏と陰陽師と天皇(35)

お気に入りの人を、官人にしたかったのですが、採用試験成績が悪かったので、試験を管理する式部省の『橘淑信』を拉致し、手心を加えるように迫り、合格させたそうです。ちなみに、普通なら拉致する時は、他人から見つからないように、隠して拉致するところを、『橘淑信』を歩かせて、堂々と拉致したそうです。ちなみに、この時は、『藤原道長』の父『藤原兼家』が、まだ、生きている時だったので、父『藤原兼家』から、やりすぎだ...

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藤原氏と陰陽師と天皇(36)

『藤原道長』は、権力を手にしてから、昔の面影はなくなり、調子づいて、傲慢になり、全ては自分のためにあると、考えるようになりました。事件の始まりの『法成寺』の造設の時も、材料が必要になれば、羅生門、新泉苑、乾臨閣、左右京職、穀倉院など重要な施設からも、勝手に礎石などを運び出したそうです。そして、道筋にあった民家を、当然のごとく解体し、その時に出た木材など、使えるものは全て略奪したそうです。その工事の...

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藤原氏と陰陽師と天皇(37)

ある時、『藤原道長』の六男『藤原長家』は、大納言兼右大将『藤原実資』との間に、トラブルが起きました。そのため、『藤原長家』は、『藤原実資』の従者の『紀元武』、『高扶明』を、拉致監禁しようとしました。しかし、『藤原道長』は、一流の学識人で、筋を通した態度を貫く『藤原実資』が、苦手だったので、もめたくなかったので、仲裁したそうです。『藤原道長』の子供たちで、特に、乱暴者として有名なのは、若い頃の『藤原...

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藤原氏と陰陽師と天皇(38)

『藤原能信』の不良仲間の右近衛将監・『藤原頼行』が、強姦を企てたそうです。そして、『藤原頼行』の要請を受けて、『藤原能信』は、気が荒く、力自慢の従者を、加勢に派遣したそうです。しかし、ちょっとした事で、口論となり、武器を使った大喧嘩となり、従者は射殺され、強姦は、失敗したそうです。『藤原頼行』は、一旦検非違使に捕まったそうですが、これ以上の混乱を避けるため、すぐに、解放されたそうです。他には、不良...

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藤原氏と陰陽師と天皇(39)

『藤原道長』と、『芦屋道満』に依頼して、呪った張本人の従兄弟の『藤原顕光』の関係は、因縁が深いものでした。『藤原道長』の祖父『藤原師輔』が死亡した時、その子供達で、後継者争いがありました。長男『藤原伊尹』が、後を継ぎましたが、すぐに死亡しました。そのため、次男『藤原兼通』と三男『藤原兼家』の間に、後継者争いが行われ、次男『藤原兼通』が、勝ち、関白になりました。『藤原兼通』と、『藤原兼家』は、以前よ...

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藤原氏と陰陽師と天皇(40)

『敦明親王』が、皇太子の地位を、自ら降ると言い出したのです。『藤原道長』が、経済的保障を約束し、天皇になると、色々大変で、自由が利かなくなるので、天皇にならない方が良いという事を納得させ、自ら皇太子廃位するように、しむけたのでした。しかも、『敦明親王』は、『藤原道長』の娘『寛子』を娶り、愛情もそちらへ移りました。そして、かわって皇太子となったのは、『藤原道長』の娘で、『一条天皇』の中宮『彰子』が、...

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藤原氏と陰陽師と天皇(41)

『藤原顕光』の娘『延子』は失意のまま、死亡したそうです。『藤原顕光』は、娘の死体を抱いて、大声で泣き叫んだそうです。その後、『藤原顕光』は、『芦屋道満』に命じて、娘『延子』の遺髪を渡して、『藤原道長』を呪詛し、「法成寺」の事件が起きたそうです。そして、『藤原顕光』は、死んだそうです。その後、『藤原道長』の娘『嬉子』は、『後朱雀天皇』に入内し、妊娠したそうです。すると、『藤原顕光』と娘『延子』の怨霊...

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藤原氏と陰陽師と天皇(44)

『藤原道長』は、豪華絢爛な「法成寺」に住んだそうです。『藤原道長』は、50歳を過ぎた頃から、糖尿病になり、急激に痩せてきて、水をよく飲むようになったそうです。さらに、糖尿病の合併症の白内障になり、視力も悪くなり、当時は眼鏡も無かったので、目の前の人物の顔の判別もできなくなったそうです。それに加えて、胸病(心臓神経症)の持病もあったそうです。そして、死の数日前から背中に腫れ物ができ、苦しくなり、どん...

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藤原氏と陰陽師と天皇(45)

平安時代、死は穢れとして、忌み嫌われていたので、天皇や一部貴族以外では、墓をつくらず、庶民も平安貴族も、破棄(風葬)が一般的でした。現在、京都の京都市東山区から西大谷に至る東山山麓は、八坂神社や清水寺、高台寺など人気観光スポットが集まる場所で、鎌倉時代には、京都を監視するための「六波羅探題」があり、重要な地域で、「六波羅探題」が出来る前は、平家の領地でした。しかし、昔は、その場所は、この世とあの世...

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藤原氏と陰陽師と天皇(46)

『藤原顕光』の祟りにより、色々悪い事が起きたと考えられたので、『藤原顕光』は、『悪霊左府』と呼ばれるようになったそうです。ちなみに、『藤原顕光』は、徳川四天王に数えられる『本多忠勝』、『徳川家康』の参謀『本多正信』の先祖だそうです。ちなみに、『本多忠勝』は、生涯57回の戦で、1度もかすり傷を負わなかったそうです。しかし、天下無双の『本多忠勝』は、小刀で彫り物をしていて、自分の名前を刻もうとした時、...

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藤原氏と陰陽師と天皇(47)

以前書いた通り、関白を巡って激しい政争が、『藤原伊周』と『藤原道長』の間に、繰り広げられていたそうです。その時、『藤原伊周』の母『高階貴子』の妹『高階光子』が、陰陽師の『円能』に命じて、呪詛事件を起こしたそうです。それが、いつの間にか、『藤原顕光』と『安倍晴明』と『藤原顕光』と『芦屋道満』の話に、なったそうです。そして、『藤原道長』、『藤原道長』の娘『彰子』、そして、『藤原道長』の孫『敦成親王(後...

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藤原氏と陰陽師と天皇(48)

『藤原道長』の妻は、数人いましたが、『藤原頼通』と『藤原教通』らの母『源倫子』と、『藤原能信』らの母『源明子』の2人を、特に愛し、『源倫子』には、男子2人、女子4人、『源明子』には、男子4人、女子2人それぞれ、6人づつ子供が出来ました。『藤原道長』の最初の妻『源倫子』は、当時の現職の左大臣『源雅信(『宇多天皇』の皇子『敦実親王』の子)』の娘で、『藤原道長』の出世の大きな助けになりました。それに対し...

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藤原氏と陰陽師と天皇(49)

正妻の『源倫子』の子供たちは、順調に出世を遂げたのに対し、『源明子』の子供たちは、出世に限界がありました。そのため、『源明子』の子供たちは、『源倫子』の子『藤原頼通』の機嫌を取って、出世を図ろうとしました。『源明子』の子『藤原能信』は、それを良しとせず、機嫌を取るどころか、公然と『藤原頼通』と口論して、父『藤原道長』の怒りを買うこともあったそうです。そのため、『藤原能信』は、正二位権大納言以上には...

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藤原氏と陰陽師と天皇(50)

『後朱雀天皇』が重体に陥った時、『藤原能信』は、『後朱雀天皇』に懇願して、皇子がいない次期天皇『後冷泉天皇』の次は、『尊仁親王』が天皇になるように、約束してもらいました。しかし、『後冷泉天皇』の妃は、『藤原頼通』と『藤原教通』のそれぞれの娘がなっていて、男子が生まれれば、皇太子は、変更されるだろうと周囲の人々は考え、『尊仁親王』や『藤原能信』への眼は、冷たいものがありました。関白を50年間務め、実...

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藤原氏と陰陽師と天皇(51)

『後三条天皇』即位の3年前に『藤原能信』が死亡していたので、『後三条天皇』は、感謝の意味を込めて、『藤原能信』の養子『藤原能長 (『藤原能信』の兄『藤原頼宗』の子)』を、内大臣に大抜擢しました。そして、『後三条天皇』は、反摂関家で、『安倍晴明』の先祖『源師房』や『源経長』らを登用して、摂関家の政権独占打破を図り、有能な『大江匡房』や『藤原実政』らの中級貴族などを登用し、積極的に親政を行ったそうです...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館、動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北、沖縄の
動物病院で勤務しました。

短期間ですが、
オーストラリアなど
海外の複数の動物園や水族館で、
研修した事があります。
詳しくは、
別のブログ「あっちこっち雑記」で。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
筆記試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、

特に歴史の時は、
現地調査までする事があったので、

関連事項まで、詳細に書くと、

テスト用紙の回答欄のスペースでは、

ものすごく不足したので、

裏まで書いても不足した時には、

2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、
白紙が、2枚配られるようになりました。

先祖が笛が得意だったのと、
子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

水族館、動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉や細かい所などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

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