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糞尿の話(10)-便所(4)

1955年頃に、現在の水洗トイレが登場し、徐々に一般家庭へと普及するようになったそうです。ちなみに、イギリスで、初めての水洗トイレは、1596年、宮廷詩人『Sir John Harrington』が、自分の荘園に設置したものと言われています。このトイレは、魚の泳いでいる水槽から水を、便座の上にある貯水容器に水を貯めた後、便座のハンドルを引っ張ってバルブを開くと、糞尿が汚水溜めに流れ落ちるという仕組みでした。『Sir Joh...

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糞尿の話(9)-便所(3)

平安時代の後期には、「くみ取り式便所」が登場しました。鎌倉時代、糞尿が、堆肥として利用が始まり、くみ取り式のトイレが普及して、糞尿の臭いが町から少なくなりました。 中国、台湾、朝鮮、モンゴル、日本などの東アジアで、人糞を肥料として用いたことが確認される最初の例は、鎌倉時代の日本だそうです。江戸時代になると、人糞を肥料として、効率的に利用していたので、街は臭くありませんでした。人糞を肥料として用いるの...

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糞尿の話(8)-便所(2)

日本のトイレ(便所)は、縄文時代より、川に板を張り出し、その上で排泄し、陶器のかけらで、お尻を拭いて、川に流すというものでした。飛鳥時代、川を屋内に引き込み、排泄し、木片でお尻を拭いたそうです。ちなみに、1119年、『源師時』の日記「長秋記」に、紙でお尻を拭いたとの記録がありますが、当時は紙は高価だったので、一部のお金持ちしか使えませんでした。ほとんどの人は排泄後、当時、紙(トイレットペーパー)が...

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糞尿の話(7)-香水

中世ヨーロッパでは、糞尿だけではなく、色々な汚物の悪臭が、街全体に漂っていました。そのため、臭いをごまかすため、ハーブや香料そして、香水が発達していったそうです。ちなみに、名前がわかっている最古の調香師は、『Tapputi Belatekallim(タップティ)』という古代メソポタミアの女性だそうです。 楔形文字の粘土板に、花のオイルや樹脂を使った香水の製造方法が、記録されているそうです。ちなみに、ギリシアのキプロス...

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糞尿の話(6)

中世のフランスの水道は、週3回、7時間だけ水が使えるだけで、毎日、24時間、水が使えるわけではなかったそうです。そのため、当時、月1回洗濯できれば良い方で、衣類の生乾きや部屋干しの臭いどころか、服にカビが生えて、服がカビ臭で臭いのは、当たり前だったそうです。また、街や服が臭うだけではなく、ほとんどの人が、お風呂やシャワーを、利用しなかったため、体臭などの臭いもひどかったそうです。何故なら、フランス...

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糞尿の話(5)

12世紀のパリでは、生ゴミなど汚物対策として、およそ半分の世帯がブタを飼い、放し飼いにしていました。何故なら、ブタは、街中にある汚物を、水槽におけるコリドラスやヌマエビの様に、片端から平らげて掃除?してくれるので、その結果、コストがかからず、ブタは丸々と太り、その後、食卓にのぼるという、一石二鳥の利用価値があったからです。ところが、事件が起きました。1131年、馬に乗った『フィリップ皇太子』と従者...

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糞尿の話(4)

フランスやイギリス、イタリアやドイツなどの中世ヨーロッパでは、古代ローマのトイレ文化は、継承されることなく、衛生観念が失われ、下水道が普及していなかったので、ほとんどの人が、「オマル」で用を足していたそうです。中世のパリでは、1395年に、法で禁止されるまで、「Gardez l'eau!(グワデー・ルー)(水に、ご注意!)」と三回叫びさえすれば、窓から糞尿などを捨てても良かったそうです。ちなみに、汚いものを外...

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糞尿の話(3)-便所(1)世界最古のトイレ

トイレの歴史は古く、世界最古のトイレ(便所)は、紀元前2200年頃の古代メソポタミアの都市エシュヌンナ(現在のイラク)のテル・アスマル遺跡から見つかったものだそうです。テル・アスマル遺跡のトイレは、煉瓦を「コ」の字状の椅子形に積み上げた便器が設けられた腰掛け式の水洗式トイレで、6ヶ所のトイレ、5ヶ所の浴室が見つかっているそうです。世界最古のトイレは、椅子の穴から下の溝に排泄し、溝を通って、汚物を集...

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糞尿の話(2)

最近、映画「超高速!参勤交代」を見ましたが、江戸時代の参勤交代は、藩主を1年おきに、江戸と国元を往復させ、幕府への忠誠を示させる制度です。藩としても、権威と忠誠心の大きさを示すため、また体面を地味にはしたくない思惑も重なり、豪勢な大名行列を作り上げて、江戸へと馳せ参じていました。しかし、参勤交代1回の諸経費全て合計すると、なんと…、約7億円と莫大な費用がかかるので、財政的に厳しい藩にとっては大きな負...

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糞尿の話(1)

『遠山の金さん』の時代劇を見ていると、長い長い長袴をはいていますが、排尿する度に脱ぐのは、大変だと思うでしょうが、実は、竹や銅で作られた長さ1m位の筒状の「尿筒」、「装束筒」を、長袴の裾に差し込み、そこに放尿したそうです。ちなみに、江戸時代には、朝夕に公務を果たす人という事が由来の「公人朝夕人」という役職の人が、将軍など高貴な人が、公的行事の時に着る第一礼装の「束帯」を着ている時に、排尿する際、「...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(5)

『遠山の金さん』こと、『遠山金四郎景元』は、1793年生まれの実在の人物です。『遠山の金さん(遠山金四郎景元)』の父『遠山金四郎景晋』は、『永井筑前守直令』の四男で、幕府の「昌平坂学問所」を、トップで卒業した秀才でした。でも、永井家の四男なので、永井家の家督を継げないので、後継ぎのいなかった名家の『遠山景好』の養子になりました。しかし、養子入りし、家督嫁いだ後、養父『遠山景好』に実子『遠山景善』が...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(4)

1846年、『鬼平(長谷川平蔵宣以)』以来、長谷川家は、同じ家に住んでいましたが、孫『長谷川平蔵宣昭』の時、引越ししたそうです。ちなみに、長谷川家の当主は、代々『長谷川平蔵』という通称を受け継いだそうです。孫『長谷川平蔵宣昭』は、4代目だそうです。そして、『鬼平(長谷川平蔵宣以)』が住んでいた屋敷に、新しく引越して来たのはなんと、時代劇では、『鬼平』と並んで有名な『遠山の金さん(遠山金四郎景元)』...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(3)

『鬼平(長谷川平蔵宣以)』は、「罪人を捕縛するだけでなく、罪人を生み出さないようにする事が大切。」と考え、犯罪者に手に職を与え、訓練する更正施設「石川島人足寄場」を、幕府に献言しました。幕府はこれを認め、『鬼平(長谷川平蔵宣以)』は、人足寄場の責任者も兼任することとなりました。そして、人足寄場では、技術だけでなく、道徳教育も行なわれ、人足寄場の設置以来、犯罪者の数は減ったそうです。そして、『鬼平(...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(2)

『鬼平(長谷川平蔵宣以)』は、関東から奥州にかけて、悪行の限りを尽くし、歯向かう者は切り殺し、数百箇所も夜盗した広域強盗団で、剣術・神道流の達人で、約800人の配下がいた『神道徳次郎(真刀徳次郎)(神稲小僧)』一味を、一網打尽にし、処刑したり、徳川家の家紋「葵の御紋」をつけた提灯を掲げて、商家に押込強盗を行い、押込先の婦女を必ず強姦するという凶悪な手口で、江戸中を荒らしまわった『桐野谷芳之助(葵小...

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時代劇の大スター『鬼平』と『遠山の金さん』(1)

「鬼平犯科帳」の主人公『鬼平』こと『長谷川平蔵宣以(銕三郎)(銕次郎)』は、1745年に東京で生まれた実在の人物です。『鬼平(長谷川平蔵宣以)』の父『長谷川平蔵宣雄』は、優秀な人物で、江戸で、「火付盗賊改」をしていました。1772年、死者約1万4千人と言われている、江戸三大大火の1つ「明和の大火」と呼ばれる大火事が起きました。そして、父『長谷川平蔵宣雄』は、その犯人『無頼漢長五郎(真秀)』を捕縛し...

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地震から生まれた美

毎年、3月11日には、東日本大震災の事を、思い出します。東日本大震災の日、ハムスターの腫瘍切除手術が、終わって、午後の診察をしている時でした。地震の後、停電がありましたが、手術したハムスターのお迎えが夕方以降の予定だったので、そこまで、診察する事にしました。何故か病院にアロマキャンドルがあったので、暗くなってからは、アロマキャンドルの灯りで、診察しました。怪しいアロマキャンドルの光が揺らめく中、懐...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(5)

『春日局』は、『お振』という娘に、男装させて、『徳川家光』の所に行かせました。すると、 1637年、将軍『徳川家光』が33歳の時、最初の子『千代姫』が、産まれました。 しかし、『お振』は、すぐに死亡して、男子を生むことが出来ませんでした。ある時、紫衣に包まれ少年のように清々しい公家『六条有純』の娘が、伊勢内宮社・慶光院17代院主となったので、挨拶に来た時、『徳川家光』は、見とれていたそうです。そのた...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(4)

将軍は、後継ぎをつくるのも仕事だったので、将軍『徳川家光』は、1623年の19歳で、正室『鷹司孝子』と結婚しましたが、結婚当初から、その仲は非常に険悪で、実質的な夫婦生活は皆無で、ほぼ軟禁生活を強いて、冷遇したそうです。将軍『徳川家光』33歳の時まで、子供が出来なかったそうです。でも、なかなか子供が出来なかったのは、仲が悪いと言うだけではなく、理由がありました。戦国時代、女性は不浄なので、出陣の前...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(3)

『徳川光圀』の父『徳川頼房』は、若年の頃、異様な衣服や刀を纏い、傍若無人な振る舞いをしていたので、そのままにすると、幕府が、譴責を加えると通達がありました。そのため、『徳川頼房』の守役『中山信吉』が、一命を懸けて、諌言したので、真面目になったそうです。その父の遺伝か、『徳川光圀』は、若い時は、やんちゃだったそうです。例えば、処刑された罪人の重い生首を、引きずりまわしたり、洪水直後の墨田川を泳いだり...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(2)

水戸徳川家で、尾張と紀州の嫡男が生まれた後の、1628年に生まれた3男『徳川光圀』を、長男を差し置いて、嫡男としたそうです。何故、『徳川光圀』が、嫡男とされたのかと言うと、別段、優秀だったからと言うのでは、ありませんでした。1632年に、『徳川光圀』を預かる『三木之次』が、『徳川頼房』に、「『長丸(千代松)(徳川光圀)』は、殿(『徳川頼房』)の子なので、認知して下さい。」と願い出たそうです。実は、...

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『伯夷』、『叔斉』と『徳川光圀』(1)

TV『水戸黄門』のモデル『徳川光圀』は、水戸藩の第2代藩主ですが、水戸徳川家の初代『徳川頼房』の三男でした。『徳川光圀』の母は、『谷重則』の娘『久子(お久)(久昌院)』ですが、正妻でもなく、正式な側室ではなかったそうです。『お久』の母親が、大奥女中を務めていたので、一緒に連れられて、城に出入りするうちに、『徳川頼房』に気に入られて、『徳川光圀』の兄『松平頼重』を懐妊しました。当時、水戸徳川家では、正...

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光る動物(33)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(26)-『伯夷』、『叔斉』

「殷」の諸侯『墨胎』が治める「孤竹国」の王子は、3人兄弟でした。ある時、父王が死んだ時、長男『伯夷』をさしおいて、三男『叔斉』に位を譲るとの遺言でした。『伯夷』は遺言に従って、弟『叔斉』に王位を継がせようとしました。しかし、『叔斉』は、兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとしましたが、「それでは、父の意思に背く。」と言って、お互いに譲り合い、話がまとまらないので、『伯夷...

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光る動物(32)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(25)-蜚廉から風伯へ(17)

『紂王』が負傷して、宮殿に戻って来ました。宮殿の警護に当たっていた『飛廉』とその子『悪来』が、『紂王』に声をかけると、「戦況は最悪で、もう少しで「殷」が終わる。」と言いました。そのため、『飛廉』とその子『悪来』が、「最後まで戦って、王朝の意地を見せつけましょう。」と勇気づけたそうです。そして、『悪来』は、「余裕を持ちましょう。」と言って、「将棋」や「双六」の起源である「六博」の盤を持ち出して来て、...

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光る動物(31)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(24)-蜚廉から風伯へ(16)

殷軍の兵士数は、約70万という大軍でしたが、周軍の兵士数は、約40万だったそうです。しかし、周軍は数の上では、確かに劣勢でしたが、『発』は、今まで調略を行っていたので、内応者が多数いたし、神官や、殷に服属している嫌々ながら参加している属国の兵士たちが、殆どだったので、周軍を見るや否や、次々に殷軍から周軍に寝返りました。そして、賄賂が好きだった宦官『費仲』は、戦いの中、助命の為、周軍に賄賂を渡しまし...

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光る動物(30)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(23)-蜚廉から風伯へ(15)

『発』が、「殷」に向けて進攻するため、孟津という港から黄河を渡ろうとした時、雷雨と暴風に邪魔されて、河を渡ることが出来なかったそうです。すると、『発』は、黄河の神に、「天命は既に下ったのだ。どうしてわたしの邪魔をするのか!」と一喝すると、雨と風が嵐がおさまり、河を渡る事が出来たそうです。その時、船の中に白魚が、飛び込んできたそうです。『発』は、白は殷のシンボルカラーなので、殷が、自ら自分の手元に、...

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光る動物(29)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(22)-蜚廉から風伯へ(14)

「周」を継いだ『発』は、兄『伯邑考』が、『紂王』に、殺され、干し肉にされた事を恨みに思っていて、機会を見て、必ず復讐しようと思っていました。そして、『発』は、軍師『呂尚(太公望)』のアドバイスもあり、『紂王』の「殷」に、決戦を挑む事にしました。『呂尚(太公望)』は、これで、ようやく、大きな動乱が起き、沢山の大物の魂を集める事が出来ると思うと、身震いが起きました。『発』の率いる周軍は、軍師『呂尚(太...

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光る動物(28)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(21)-蜚廉から風伯へ(13)

そして、『姫昌』は、軍師『呂尚(太公望)』のアドバイスにより、北方遊牧民族の「犬戎」や諸侯国の「邗」を征伐しました。すると、以前、『紂王(帝辛)』に、『姫昌』の事を密告した宿敵『祟候虎(崇侯虎)』は、その情報を聞いてからすぐに、『紂王(帝辛)』に、『姫昌』が反乱を起こしているので、討伐して欲しいと伝言ましたが、伝言が届く前に、宿敵『祟候虎(崇侯虎)』は、討伐されました。ちなみに、『祟候虎(崇侯虎)...

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光る動物(27)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(20)-蜚廉から風伯へ(12)

ある時、最高神『元始天尊』は、仙界に仙人が多くなり、窮屈になり、落ち着かなくなってきたので、宇宙再編成計画の封神計画を考えました。それは、「上級の仙人」が、高度な仕事をするには、心に余裕が必要なので、高級リゾートの様に、「仙界」を余裕ある空間にするため、「仙界」と「人間界」の間に「神界」と言う世界を創り、「下級の仙人」と「人間離れした人間」を、「神」にして、「神界」に移住させて、新しい安定した世の...

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光る動物(26)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(19)-蜚廉から風伯へ(11)

ある日、『姫昌』が、狩りをしに行く前に、気まぐれに、占い師に、「狩りの成果を占ってくれるか。」と聞きました。すると、占い師は、「今回の収穫は、鳥獣をではなく、人材でしょう。」と言いました。『姫昌』は、面白い事と言って、狩りに出かけると、河で老人が、釣りをしている姿を目にしました。しかし、近寄ってみると、返しの無い真っ直ぐな針に餌もつけず、それどころか、針は着水するどころか、水面の数cm上の所に針が...

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光る動物(25)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(18)-蜚廉から風伯へ(10)

『姫昌』は、自国に戻ってから、仁政を施していたので、次第に、『姫昌』が統治している「周」に、人々が集まって来ました。また、近隣の国同士で、揉め事が起きると、『姫昌』に、調停を頼みに来る諸侯もいました。ある時、「虞国」の君主と「芮国」の君主が、『姫昌』に、揉め事を調停してもらうため、やって来ました。「虞国」の君主と「芮国」の君主は、それぞれ別々に、『姫昌』が統治している「周」を通って来たのですが、そ...

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光る動物(24)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(17)-蜚廉から風伯へ(9)

『紂王』の叔父に、高い学識や人徳、深い信仰を持ち、慈悲深く、聖人と呼ばれる『比干』がいました。ある時、『比干』は、「国力が落ちている今、悪い習慣は立ち切らなければいけません。臣下たる者は、命をかけて、諫言しなければならないので、あえて言います。「炮烙の刑」と言う残酷な刑罰を見て、国民は嫌悪感を抱いています。また、現在、兵力が十分と言えないのに、そのような刑で、無駄に国民が死亡すると、兵力が落ちます...

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光る動物(23)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(16)-蜚廉から風伯へ(8)

『崇侯虎』の讒言で、干し肉にされた『仇侯』の子『秀』と干し肉にされた『鄂侯』の子『禹』は、諸侯と盟約を結んで、東方で反乱を起こしたそうです。『紂王』は、自分に逆らうとどうなるかを知らせると言って、自らも加わり、遠征に向かったそうです。しかし、抵抗は激しかったので、何度も遠征を行ったそうです。その結果、軍費が増大し、死人も多く出て、国内には、厭戦気分が蔓延しました。『紂王』の兄『微子啓』は、穏やかな...

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光る動物(22)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(15)-蜚廉から風伯へ(7)

『姫昌』の長男『伯邑考』は、幽閉された父『姫昌』を解放してもらうため、家宝三点を土産に、『紂王』の元に訪れました。そして、得意の琴で、『紂王』を感動させると、『紂王』は、『姫昌』の罪を許すと言いました。その夜、『伯邑考』は、良かったと安心して、休んでいると、『妲己』が来て、誘惑してきました。しかし、『伯邑考』は、きっぱりと誘惑を断ったため、『妲己』は、辱めを受けたと言って、逆恨みしました。そして、...

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光る動物(21)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(14)-蜚廉から風伯へ(6)

会議に出席するため、四大諸侯の1人『姫昌(文王)(寧王)』が、宮殿へ向かいました。到着した時は、まだ会議が始まっていなかったので、集まった諸侯たちは、「『九侯』と『鄂侯』が、『紂王』の機嫌を損ねて、処刑されたらしい。我らも、何時同じ目にあるかもしれないから、『紂王』のご機嫌を伺って、気を付けなければいけないな。」と小さな声で話していました。この話を聞いていた『姫昌』は、同僚の非業の死を考え、「窮屈...

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光る動物(20)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(13)-蜚廉から風伯へ(5)

『紂王』は、重税を課し、反抗する人々を殺害し、儀式で、必要だと言って、多くの人間を生贄とし、また、外征を頻繁に行ったので徴兵も行われ、民衆は「殷(商)」に対して、嫌悪感を持つようになり、諸侯たちも、不快な気持ちを抱いていました。「殷(商)」の『紂王』を補佐する四大諸侯の1人の『仇侯鄧』の娘が美貌だったため、『紂王』は、自分の側室になるように要求しました。しかし、彼女は、側室になることを激しく拒んだ...

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光る動物(19)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(12)-蜚廉から風伯へ(4)

ある時、『紂王』は、人類を創造し、人類の始祖の女神『女媧』に対して、「『女媧』は、世界中の人間より美しい。『女媧』が、私のものであったらいいのに。」という意味の詩を詠んだそうです。この無礼な詩を聞いて、『女媧』は怒り、千年生きた狐狸の精霊に、『紂王』を、陥れるよう命じたそうです。そのため、狐狸の精霊は、後宮に入ることになっていた冀州侯『蘇護』の娘『妲己』の魂魄を滅ぼして、身体を手に入れ、『紂王』を...

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光る動物(18)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(11)-蜚廉から風伯へ(3)

『紂王』より、討伐を命じられた『祟候虎』でしたが、一番大切なのは、『妲己』を殺さず連れてくる事と、厳命されていたので、『蘇護』軍を全滅させる事は、『妲己』を殺す事になるので、絶対に避けなければいけませんでした。そのため、『祟候虎(崇侯虎)』は、全滅させるのは簡単だが、『蘇護』の娘『妲己』を殺さず連れてくるのは、どうすれば良いのかと、攻めあぐんでいました。すると、『祟候虎(崇侯虎)』軍に、援軍として...

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光る動物(17)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(10)-蜚廉から風伯へ(2)

『妲己』の父は、政治家には珍しい位清廉な冀州候『蘇護(蘇忿生)』でした。『紂王』に、気に入られていた宦官『費仲』は、本来、貢物を貰うような立場ではないのに、『紂王』に、気に入られていたのをいいことに、諸侯に賄賂を要求していました。しかし、清廉な冀州候『蘇護』が、賄賂を嫌い、貢物をを送らないので、宦官『費仲』は、思い知らせるため、美女好きな『紂王』に、『蘇護』の娘『妲己』が、物凄い美人だと勧めたそう...

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光る動物(16)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(9)-蜚廉から風伯へ(1)

『風伯』が、人間だった頃の『飛廉(蜚廉)』は、『紂王』に仕えて、信仰心があつく、天に対する、祈りと感謝を、常に忘れませんでした。『飛廉(蜚廉)』は、走るのが速く、小回りが利いたので、『紂王』から密命を受けて、人事の適材適所の配置などの参考にするため、『紂王』に仕えている各人の戦闘能力、采配、智謀、性格などについて、秘かに情報収集するという隠密のような仕事をしていましたが、「チクリ魔」として、諸侯か...

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光る動物(15)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(8)

以前、『蚩尤』は、根源的な不滅の真理を極める為、祁山で修行を積んだのですが、その時の弟弟子で、風を操るすべを身に着けるため修行していた『風伯(飛廉)(蜚廉)(方天君)(箕星)(箕伯)』を呼びました。『風伯』は、頭に角を持ち、鹿の胴体で、翼があり、蛇の尻尾を持つ風神でした。ちなみに、『風伯』は、大昔、人間だったそうです。人間だった頃の名は、『飛廉』と言い、「殷(商)」の『紂王(帝辛)』に仕え、行政事...

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光る動物(14)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(7)

そして、ある時から『軒轅(黄帝)』軍は、『炎帝』の兵士たちに、見えるように、軍事訓練を行い始めました。その後も軍事訓練は、3年間続きました。その間、戦闘力が増強している所を、見せつけたので、『炎帝』は、自軍の兵士たちが、敵の軍事力を見て、士気が低下するのを防ぐため、障壁を作り、敵の軍事訓練を見れないようにし、防御を固めて、状況を見守りました。しかし、実は、『軒轅(黄帝)』が、軍事訓練を見せつけてい...

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光る動物(13)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(6)

神獣部隊が、龍神『応龍』の元を訪れて、援軍になって欲しいと頼みました。龍神『応龍』は、『軒轅(黄帝)』の活躍を知っていたので、すぐにでも援軍に駆け付けたかったのですが、「天帝」の許可が必要だったので、許可をもらいに行きました。「天帝」は、龍神『応龍』に、「新しい時代に、『軒轅(黄帝)』が必要だ。『軒轅(黄帝)』の力になって、新しい時代を、築いてきなさい。」と言いました。そして、龍神『応龍』は、『軒...

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光る動物(12)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(5)

火を取り扱うのが得意だった『炎帝』により、あっという間に、城が炎に包まれました。城兵たちがパニック状態に陥り、どんどん城兵たちの士気が低下しましたが、神獣部隊の誘導と消火活動により、城兵たちは、パニック状態から脱出する事が、出来ました。しかし、『炎帝』が取り扱う火は、神出鬼没に出火してきました。『軒轅(黄帝)』は、このまま行くと、兵士たちの限界が来て、士気が低下し、やがては、全滅すると思い、この先...

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光る動物(11)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(4)

『炎帝』は、時代が動いている事に気が付かなかったので、まだ、みんなから尊敬されていると思い、何をやっても許されると考えていたので、たびたび周辺諸国を、侵略していました。『炎帝』の事を尊敬していた時代を知らない新興勢力の諸侯たちは、たまりかねて、『軒轅(黄帝)』に助けを求めてきました。『軒轅(黄帝)』は、『炎帝』に不満を持つ諸侯たちを吸収して、一大勢力を築きました。そして、旧勢力の『炎帝』と、新しい...

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光る動物(10)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(3)

追い詰められた『炎帝』は、気が合わなかったのですが、背に腹はかえられぬという事で、中原を黄河流域勢力下におさめていた戦闘能力の高い有熊国部落の首領で、かつ華夏部族連盟の首領でもある『軒轅(黄帝)』に、援軍を要請しました。『軒轅(黄帝)』は、『蚩尤』が、民を虐げていた事と将来の自分の障害になると、苦々しく思っていたので、援軍を出しました。そして、『軒轅(黄帝)』は、戦いの分析をした結果、武器の違いが...

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光る動物(9)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(2)

『炎帝(炎帝神農)』は、聖徳があって帝位につき、医薬と農業と火を司り、人々の生活を長い間、安定させていましたが、120歳になり、体が弱り、権勢の衰退が見られました。そのため、各地で、反乱が起こり、世の中は乱れました。混沌としていた中、中原の東方の戦の上手い九黎族の首領『蚩尤』が、新興勢力として、頭角を現してきました。『蚩尤』には、誰にも負けないほどの野心がありました。そして、『蚩尤』の兄弟は、72...

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光る動物(8)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(1)

今から、光るカイコの話をしますが、まずは、その前に、カイコの飼育を語るためには、外せない『黄帝』について、話します。今から4-5千年前の中国の神話の時代、三皇(神)の治世を継ぎ、中国を統治した五帝(聖人)の最初の帝『黄帝(軒轅)(公孫)(姫軒轅)』が即位しました。『黄帝』は、中国の礎を築いた偉大な王で、多くの漢民族が崇拝し、現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』の著者で、中国医...

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日露戦争(24)-正露丸(4)

日露戦争後の1908年に「クレオソート丸」に名称が戻るまで、正式名称は、「征露丸」でした。その後、第二次世界大戦後、国際信義上「征」の字を使うことには、好ましくないとの行政指導があり、大幸薬品株式会社は、ラッパのマークの「正露丸」と改められたそうです。しかし、奈良県の日本医薬品製造株式会社だけは、現在も「征露丸」の名前で販売を続けているそうです。その後、1946年に、大幸薬品の創業者『柴田音治郎』...

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日露戦争(23)-正露丸(3)

ちなみに、クレオソートは、2種類あります。まずは、ブナやマツなどの原木を乾留して得られる木タールを精製した淡黄色透明の液体の木クレオソート(日局クレオソート)は、正露丸の主成分で、医薬品となります。そして、木クレオソートとは、製法・成分の異なるクレオソート油(石炭クレオソート、工業用クレオソート)があり、これは、石炭を乾留する際に副生成物として得られるコールタールを蒸留した黒褐色の液体で、防腐剤と...

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日露戦争(22)-正露丸(2)

日本の軍隊では、兵士の死亡原因が、日清戦争で、戦死より、不衛生な水源による伝染病による病死の方が多いという事に悩まされた日本軍は、感染症の対策に取り組んでいたそうです。陸軍軍医学校の教官『戸塚機知』三等軍医正は、1903年にクレオソートが、チフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見しました。ドイツ医学に傾倒していた『森林太郎(森鷗外』)ら陸軍の軍医たちは、チフス以上に多くの将兵を失う原因となっ...

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プロフィール

ムーミン

Author:ムーミン
生まれは、福岡、
育ちは、大阪、
現在、秋田市で、
動物病院を開院。

長年、
水族館・動物園で、
獣医師として勤務していました。

短期間ですが、
犬猫行政、
食品衛生業務も
しました。

その後、
長年、
東北・沖縄の
動物病院で勤務しました。

祖先は、醍醐源氏の末裔で、
福岡県八女市黒木の
猫尾城の城主を
していました。
詳しくは動物病院HPで。

学生時代、
生物学と歴史は好きでした。

高校時代、
筆記試験の時は、
事前に、関連事項まで詳しく調べて、
時には、歴史の時は、
現地調査までしていたので、

回答欄のスペースでは、不足したので、
裏まで、時には2枚目の白紙をもらい、
ぎりぎりまで書いていました。

そのため、高校の時は、
歴史や生物のテスト用紙が配られる時、
あらかじめ、自分だけ白紙が、
2枚配られていました。

先祖が笛が得意だったのと、
子供の頃、
ピアノを習っていたので、
音楽が好きです。

動物園勤務時代、
野生動物は、
殺気を感じると、
逃げるので、
殺気を感じさせない為、
歌いながら、
治療していたので、
歌が得意になりました。

尚、話し言葉などは、
意訳の場合もあります。

リンクはフリーです。

知らせてもらえれば、
嬉しいです。

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