光る動物(19)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(12)-蜚廉から風伯へ(4)

ある時、『紂王』は、人類を創造し、人類の始祖の女神『女媧』に対して、「『女媧』は、世界中の人間より美しい。『女媧』が、私のものであったらいいのに。」という意味の詩を詠んだそうです。この無礼な詩を聞いて、『女媧』は怒り、千年生きた狐狸の精霊に、『紂王』を、陥れるよう命じたそうです。そのため、狐狸の精霊は、後宮に入ることになっていた冀州侯『蘇護』の娘『妲己』の魂魄を滅ぼして、身体を手に入れ、『紂王』を...

光る動物(18)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(11)-蜚廉から風伯へ(3)

『紂王』より、討伐を命じられた『祟候虎』でしたが、一番大切なのは、『妲己』を殺さず連れてくる事と、厳命されていたので、『蘇護』軍を全滅させる事は、『妲己』を殺す事になるので、絶対に避けなければいけませんでした。そのため、『祟候虎』は、全滅させるのは簡単だが、『蘇護』の娘『妲己』を殺さず連れてくるのは、どうすれば良いのかと、攻めあぐんでいました。すると、『祟候虎』軍に、援軍として来ていた『姫昌』の配...

光る動物(17)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(10)-蜚廉から風伯へ(2)

『妲己』の父は、政治家には珍しい位清廉な冀州候『蘇護』でした。『紂王』に、気に入られていた宦官『費仲』は、本来、貢物を貰うような立場ではないのに、『紂王』に、気に入られていたのをいいことに、諸侯に賄賂を要求していました。しかし、清廉な冀州候『蘇護』が、賄賂を嫌い、貢物をを送らないので、宦官『費仲』は、思い知らせるため、美女好きな『紂王』に、『蘇護』の娘『妲己』が、物凄い美人だと勧めたそうです。そし...

光る動物(16)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(9)-蜚廉から風伯へ(1)

『風伯』が、人間だった頃の『飛廉(蜚廉)』は、『紂王』に仕えて、信仰心があつく、天に対する、祈りと感謝を、常に忘れませんでした。『飛廉(蜚廉)』は、走るのが速く、小回りが利いたので、『紂王』から密命を受けて、人事の適材適所の配置などの参考にするため、『紂王』に仕えている各人の戦闘能力、采配、智謀、性格などについて、秘かに情報収集するという隠密のような仕事をしていましたが、「チクリ魔」として、諸侯か...

光る動物(15)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(8)

以前、『蚩尤』は、根源的な不滅の真理を極める為、祁山で修行を積んだのですが、その時の弟弟子で、風を操るすべを身に着けるため修行していた『風伯(飛廉)(蜚廉)(方天君)(箕星)(箕伯)』を呼びました。『風伯』は、頭に角を持ち、鹿の胴体で、翼があり、蛇の尻尾を持つ風神でした。ちなみに、『風伯』は、大昔、人間だったそうです。人間だった頃の名は、『飛廉』と言い、「殷(商)」の『紂王(帝辛)』に仕え、行政事...

光る動物(14)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(7)

そして、ある時から『軒轅(黄帝)』軍は、『炎帝』の兵士たちに、見えるように、軍事訓練を行い始めました。その後も軍事訓練は、3年間続きました。その間、戦闘力が増強している所を、見せつけたので、『炎帝』は、自軍の兵士たちが、敵の軍事力を見て、士気が低下するのを防ぐため、障壁を作り、敵の軍事訓練を見れないようにし、防御を固めて、状況を見守りました。しかし、実は、『軒轅(黄帝)』が、軍事訓練を見せつけてい...

光る動物(13)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(6)

神獣部隊が、龍神『応龍』の元を訪れて、援軍になって欲しいと頼みました。龍神『応龍』は、『軒轅(黄帝)』の活躍を知っていたので、すぐにでも援軍に駆け付けたかったのですが、「天帝」の許可が必要だったので、許可をもらいに行きました。「天帝」は、龍神『応龍』に、「新しい時代に、『軒轅(黄帝)』が必要だ。『軒轅(黄帝)』の力になって、新しい時代を、築いてきなさい。」と言いました。そして、龍神『応龍』は、『軒...

光る動物(12)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(5)

火を取り扱うのが得意だった『炎帝』により、あっという間に、城が炎に包まれました。城兵たちがパニック状態に陥り、どんどん城兵たちの士気が低下しましたが、神獣部隊の誘導と消火活動により、城兵たちは、パニック状態から脱出する事が、出来ました。しかし、『炎帝』が取り扱う火は、神出鬼没に出火してきました。『軒轅(黄帝)』は、このまま行くと、兵士たちの限界が来て、士気が低下し、やがては、全滅すると思い、この先...

光る動物(11)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(4)

『炎帝』は、時代が動いている事に気が付かなかったので、まだ、みんなから尊敬されていると思い、何をやっても許されると考えていたので、たびたび周辺諸国を、侵略していました。『炎帝』の事を尊敬していた時代を知らない新興勢力の諸侯たちは、たまりかねて、『軒轅(黄帝)』に助けを求めてきました。『軒轅(黄帝)』は、『炎帝』に不満を持つ諸侯たちを吸収して、一大勢力を築きました。そして、旧勢力の『炎帝』と、新しい...

光る動物(10)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(3)

追い詰められた『炎帝』は、気が合わなかったのですが、背に腹はかえられぬという事で、中原を黄河流域勢力下におさめていた戦闘能力の高い有熊国部落の首領で、かつ華夏部族連盟の首領でもある『軒轅(黄帝)』に、援軍を要請しました。『軒轅(黄帝)』は、『蚩尤』が、民を虐げていた事と将来の自分の障害になると、苦々しく思っていたので、援軍を出しました。そして、『軒轅(黄帝)』は、戦いの分析をした結果、武器の違いが...

光る動物(9)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(2)

『炎帝(炎帝神農)』は、聖徳があって帝位につき、医薬と農業と火を司り、人々の生活を長い間、安定させていましたが、120歳になり、体が弱り、権勢の衰退が見られました。そのため、各地で、反乱が起こり、世の中は乱れました。混沌としていた中、中原の東方の戦の上手い九黎族の首領『蚩尤』が、新興勢力として、頭角を現してきました。『蚩尤』には、誰にも負けないほどの野心がありました。そして、『蚩尤』の兄弟は、72...

光る動物(8)(カイコ)-カイコを始めた黄帝の話(1)

今から、光るカイコの話をしますが、まずは、その前に、カイコの飼育を語るためには、外せない『黄帝』について、話します。今から4-5千年前の中国の神話の時代、三皇(神)の治世を継ぎ、中国を統治した五帝(聖人)の最初の帝『黄帝(軒轅)(公孫)(姫軒轅)』が即位しました。『黄帝』は、中国の礎を築いた偉大な王で、多くの漢民族が崇拝し、現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』の著者で、中国医...

日露戦争(24)-正露丸(4)

日露戦争後の1908年に「クレオソート丸」に名称が戻るまで、正式名称は、「征露丸」でした。その後、第二次世界大戦後、国際信義上「征」の字を使うことには、好ましくないとの行政指導があり、大幸薬品株式会社は、ラッパのマークの「正露丸」と改められたそうです。しかし、奈良県の日本医薬品製造株式会社だけは、現在も「征露丸」の名前で販売を続けているそうです。その後、1946年に、大幸薬品の創業者『柴田音治郎』...

日露戦争(23)-正露丸(3)

ちなみに、クレオソートは、2種類あります。まずは、ブナやマツなどの原木を乾留して得られる木タールを精製した淡黄色透明の液体の木クレオソート(日局クレオソート)は、正露丸の主成分で、医薬品となります。そして、木クレオソートとは、製法・成分の異なるクレオソート油(石炭クレオソート、工業用クレオソート)があり、これは、石炭を乾留する際に副生成物として得られるコールタールを蒸留した黒褐色の液体で、防腐剤と...

日露戦争(22)-正露丸(2)

日本の軍隊では、兵士の死亡原因が、日清戦争で、戦死より、不衛生な水源による伝染病による病死の方が多いという事に悩まされた日本軍は、感染症の対策に取り組んでいたそうです。陸軍軍医学校の教官『戸塚機知』三等軍医正は、1903年にクレオソートが、チフス菌に対する著明な抑制効果を持つことを発見しました。ドイツ医学に傾倒していた『森林太郎(森鷗外』)ら陸軍の軍医たちは、チフス以上に多くの将兵を失う原因となっ...

日露戦争(21)-正露丸(1)

日露戦争で、流行した薬と言えば、征露丸(正露丸)が思い出されます。正露丸の主成分の木クレオソートは、1830年にドイツ人化学者『カール・ライヘンバッハ』が、ヨーロッパブナの木から、木タールをつくり、それを精製して、作り出しました。その後、木クレオソートは、殺菌作用や防腐効果があると考えられ、化膿症の治療や外用消毒薬、食肉の防腐剤、鎮咳剤、肺炎や肺結核、その後、胃腸疾患の治療に使われるようになり、ア...

日露戦争(20)

1904年、日露戦争が始まるとすぐに、ロシア正教会は国を挙げて、日本に天変地異が起こるように、呪詛したそうです。しかし、日本に、天変地異が起きず、ロシアは、敗戦しました。その後、1923年、関東大震災が発生し、日本は、甚大な被害を受けました。そして、ロシアの宗教家たちや物理学者たちは、集まって、長い間話し合った結果、祈祷してから19年後に関東大震災が起きたので「神は、我々のいる場所から、19光年離...

日露戦争(19)

日露戦争の結果は、日本の勝利となりましたが、弱小国の日本により、世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊が、壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は、欧米諸国を驚愕させました。ちなみに、イギリスは日本海軍の勝因を詳細に研究した結果、軍艦の根本的な作り直しが必要になったそうです。そして、大砲を鋼鉄で囲んで動かして撃つ「砲塔」という概念が出きたそうです。その「砲塔」のため戦艦が巨大化し、弩級(ド級)...

日露戦争(18)-不思議な話(4)

315年頃、『日本武尊』が、東夷征伐の途中に、「矢作川の東側の高石山に、賊が住みつき、人々を苦しめている。」と聞きました。『日本武尊』は、賊の退治を行うため、矢を作る職人である矢作部たちに、矢を作るよう命じました。矢を作るための竹は、川の中州にありましたが、川の流れが速く、矢作部たちは、竹の生えている中州まで、行けませんでした。そこへ1匹の蝶が現れ人の姿となり、竹を切り取ってきたそうです。矢作部た...

日露戦争(17)-不思議な話(3)

1919年頃、筑摩型防護巡洋艦「矢矧」で、元軍人Kさんが体験した話です。Kさんは、砲術士を命じられました。鑑内を調べると使えそうな予備室があったので、副長に、「事務もあるので、自分用の部屋として、使用したい。」と、許可をもらいに行ったそうです。すると、副長から、「次室士官のくせに、ハンモックで十分だ。」と怒られました。しかし、Kさんは、バレないと思い、黙って予備室に忍び込み、荷物を運んで、勝手にその...

日露戦争(16)-不思議な話(2)

1959年の映画『海軍兵学校物語 あゝ江田島』に、うわさ話として出てきた心霊話があります。その、うわさ話の元になった話は、海軍士官の養成学校の江田島海軍兵学校の生徒だったAさんの体験談です。ある夜、Aさんは、上級生に生意気だと難癖をつけられて、御殿山を、10周、駆け足で回ってこいと言われました。当時、良くない事でしたが、上級生から理不尽な懲罰を受け、上からの命令は、絶対服従が、海軍兵学校の伝統でした...

日露戦争(15)-不思議な話(1)

『柳田国男』の「遠野物語拾遺」によると、日露戦争の時、陸上戦で、不思議な事があったそうです。ロシアの捕虜の数人が、「日本兵で、黒服を着ている兵隊を射てば、倒れたが、赤服や白服の兵隊は、いくら射っても倒れなかった。何故、倒れなかったのか?」と聞いてきたそうです。しかし、「ほとんどの日本兵は、基本、黒服なので、夏服の白服を着た日本兵やましてや赤い服を着た兵士は、珍しい。」とのこと。白い服と言えば、出雲...

日露戦争(14)-ロジェストヴェンスキー(5)

『ロジェストヴェンスキー』は、ロシアに戻ってすぐに、大将に昇進しました。その後、1906年に、日露戦争に関する軍法会議が開かれました。その時、『ロジェストヴェンスキー』は、「敗戦の責任は自分にある。自分と『ネボガトフ』だけを訴追すればいい。」と発言しましたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして、少将に降格されただけでした。その代わり、『ロジェストヴェンスキー』が倒れた後、全軍の指揮を...

日露戦争(13)-ロジェストヴェンスキー(4)

捕虜となった『ロジェストヴェンスキー』は、佐世保の海軍病院に入院しました。1905年6月、『東郷』が、軍服ではなく、白いシャツという平服姿で見舞いに訪れました。病室に入ると、『ロジェストヴェンスキー』を見下ろす形にならないよう、枕元の椅子にこしかけ、顔を近づけて、状態を気づかいながら、日頃は、極端な寡黙で知られる『東郷』が、周囲の将校が驚くほど、饒舌に話し始めました。「我々軍人が、たとえ負けたから...

日露戦争(12)-ロジェストヴェンスキー(3)

日露戦争開戦当初、『塚本克熊』中尉は、古い掃海艇で、機雷の排除を行っていました。しかし、その艦が触雷して、沈没したので、旗艦「三笠」に収容されたそうです。「三笠」で、『塚本』は、『東郷』と顔見知りになり、日本では、『東郷』しか持っていない、艦の据付望遠鏡を超える高倍率のドイツのカール・ツァイス社の双眼鏡に、興味があると話したところ、『東郷』は、こころよく双眼鏡を、貸してくれました。そして、『塚本』...

日露戦争(11)-ロジェストヴェンスキー(2)

旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」で指揮をとっていた司令長官『ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー』は、戦いが始まってから約30分で、『東郷平八郎』司令長官が率いる日本艦隊の集中砲火を浴び、司令長官『ロジェストヴェンスキー』は、右肩骨折、右足踵の動脈切断という重傷を負い、全身血まみれで、顎髭も半分焼けて、ボロボロになりました。駆逐艦「ベドーヴイ」は、旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」に近づ...

日露戦争(10)

日露戦争時、日本艦隊は、海軍の『宮原二郎』が発明した、蒸気タービンエンジンの動力の源の「宮原式水管汽罐(ボイラー)」と言う当時、世界最速のエンジンを取り付けていました。「宮原式水管汽罐」は、価格が、当時の世界標準の半分以下で、給水・掃除が容易で、耐久性に富み、燃費がよく、小型でありながら高馬力であるというものでした。日露戦争の勝利には、「宮原式水管汽罐」により、日本海軍の機動性が、良くなったことも...

日露戦争(9)

1905年、『秋山』が夢で暗示を受けた対馬海峡を、哨戒中だった「信濃丸」が、相手に気づかれることなく、バルチック艦隊の病院船「アリヨール」を発見しました。ちなみに、艦隊を発見を打電した「信濃丸」は、当初、シアトル航路用貨客船だったそうですが、日露戦争のため、仮装巡洋艦となったそうです。日露戦争後、貨客船に復帰したそうです。ちなみに、『永井荷風』が渡米した時や、『孫文』が台湾から日本に亡命する時に、...

日露戦争(8)

日本は、ロシアに比べて、かなり戦力不足でしたが、優秀な人物が多くいて、「技術立国:日本」の名前の通り、知力、技術力、科学力で補いました。作戦計画の全てを担当した『児玉源太郎』は、視野が広く判断力に優れていて、日本軍の参謀育成の教官として、招かれたドイツ陸軍参謀将校の『クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケ』ルから、才覚を高く評価されていて、日露戦争開戦を聞いたメッケルは「日本に『児玉』が居る限り...

日露戦争(7)-秋山真之(3)

日露戦争の時、敵艦隊がいる旅順港を封鎖した時、敵艦隊が前日まで見えていたのに、朝になり、突然、敵艦隊が見えなくなりました。「封鎖を破って脱出したのでは?」と大騒ぎになりましたが、統率力、判断力、決断力ともに優れていた連合艦隊司令長官の『東郷平八郎』は、「敵は、脱出していない。内にいる。」と言って、平然としていました。そして、調査の結果、敵艦隊は、夜間に秘かに停泊地を変えたのですが、内港にいることが...

日露戦争(6)-秋山真之(2)

1905年、日露戦争の時、ロシアのバルチック艦隊の航路が、対馬海峡か、太平洋を迂回して、津軽海峡や宗谷海峡から来るのかが、分からず、何度も作戦会議が開かれていました。連日の激務で疲ていた『秋山』は、椅子に座ったまま眠ってしまいました。すると、再び「名探偵コナン」の「眠りの小五郎」ではありませんが、目の前に、対馬海峡の全景が広がりました。そこに、バルチック艦隊が二列で来たのが見えました。「分かった!...

日露戦争(5)-秋山真之(1)

最近、教科書検定の近隣諸国条項により、日本の歴史が、おろそかになっているので、若い人は知らないと思いますが、「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の名文で知られる海軍の『秋山真之』は、『正岡子規』と幼馴染で、一緒に文学の道を目指した事もあったそうです。『秋山真之』は戦術の達人で、機雷敷設や七段構えの戦法など、バルチック艦隊の迎撃作戦を考えました。そして、『秋山』は、日露戦争(日本海海戦)の報告文で、「天と...

日露戦争(4)-ロジェストヴェンスキー(1)

バルチック艦隊の司令長官『ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー』の航海は、かなり困難な物でした。ロシアは、日本艦隊が日本に着くまでの間、奇襲攻撃を想定し、世界各地でエージェントを雇い、日本艦隊の動向を監視させました。すると、エージェントは報奨金目当てに、日本の水雷艇を発見したと、世界各地から情報を送って来ました。そのため、バルチック艦隊は、神経過敏に陥っていました。そして、ドッガーバン...

日露戦争(3)-皇后の奇夢

日露戦争が始まった1904年2月10日、『昭憲皇太后(明治天皇妃)』が、「皇后の奇夢」と呼ばれる夢の話が発表されました。日露戦争開戦当時、『東郷平八郎』率いる日本艦隊が、バルチック艦隊をうまく捕捉して、叩き潰せば良いが、捕捉に失敗してし、旅順艦隊と合流してしまえば、日本海軍に勝ち目はないという状況だったので、新聞の漫画にまで書かれる程、日本国民の最大の関心事は、ロシアのバルチック艦隊の動向でした。『昭...

日露戦争(2)-ニコライ2世(2)

『ニコライ2世』は、日露戦争開始時、日本の状況を把握するために、日本を偵察した『グロンプチェスキ』少将に意見を聞きました。『グロンプチェスキ』少将は、「日本の海軍の戦力は、我が国の半分です。また、陸軍の戦力は、15分の1位で、かなり劣っています。しかし、精強で、軽視すべきではありません。」と報告しました。すると、『ニコライ2世』は、「君は、長年の極東勤務で、神経がおかしくなっている。6ヶ月の長期休...

日露戦争(1)-義和団の乱-ニコライ2世(1)

日露戦争開始前、ラスプーチンを敬愛していたニコライ2世は、ものすごく日本を軽蔑していました。日清戦争で日本が勝利し、日本と清との間で結ばれた下関条約により、遼東半島が日本に割譲されました。ニコライ2世は、「日本の小猿が良い気になっている。黄色人種などの有色人種の国々は、優秀な白人人種の植民地にしかすぎない。我が国が本気を出せば、すぐに領土を差し出し、我が前にひれ伏すだろう。」と言っていました。キリ...

昔話(151)-高峰譲吉(20)-日米の懸け橋(3)

無理がたたったのか、『高峰譲吉』が、体調を崩したので、静養することにしました。すると、そこへ『渋沢栄一』が、お見舞いに来ました。『高峰譲吉』は、「アメリカに渡って30年、せめて老後は、日本の風景に抱かれて暮らしたい。」と言うと、『渋沢栄一』は、涙を流しながら、「君の気持は、痛いほど分かる。しかし、日本は、危機的な状況下にあり、日米関係改善は、日本にとって、最大課題となっています。でも、日米関係改善...

昔話(150)-高峰譲吉(19)-日米の懸け橋(2)

『金子堅太郎』は、『渋沢栄一』から、アメリカに行ったら、『高峰譲吉』に、会うように勧められていたので、訪ねました。その時、『金子堅太郎』は、「日米関係が良くなるように、日本の良いところを、周知のほど、よろしくお願いします。」とお願いしました。『高峰譲吉』は、「ロシアは、アメリカの独立戦争や南北戦争で、アメリカを援助したので、アメリカ国民の8割は、ロシアに好意を持っています。日本には、関心が無い人が...

昔話(149)-高峰譲吉(18)日米の懸け橋(1)

『高峰譲吉』は、ジアスターゼなどの発見などによって巨万の財を得て、小さな池ではなく、湖があるような大豪邸に住んでいたそうです。1904年、日露戦争が始まりました。日本は開戦当初から、長期決戦では、日本の国力が持たないので、アメリカの介入による講和を期待し、『セオドア・ルーズベルト』米大統領とハーバード大学の同級生で、親交のあった『金子堅太郎』を、派遣しました。ちなみに、第26代米大統領『セオドア・...

昔話(148)-高峰譲吉(17)-アドレナリン(4)

『エイベル』が見つけた「エピネフリン(アドレナリン)」発見を、祝う行事の準備段階の一環として、1974年、『エイベル』の実験が、いかに優れていたかを、証明するための比較として、『上中啓三』が残していた実験記録と『エイベル』の実験記録を検証した結果、残念な事に、『エイベル』の主張が、まったく的外れであっただけでなく、『上中啓三』の方法では、「アドレナリン」は、結晶化しましたが、『エイベル』の方法では...

昔話(147)-高峰譲吉(16)-アドレナリン(3)

実験で、片目と片腕の自由を失っていた『エイベル』は、『高峰譲吉』が、死亡した5年後の1927年、突然、「アドレナリンの生成に成功したのは、自分の方が先で、『高峰譲吉』たちが、「アドレナリン」発表前に、自分の研究室を訪問した時に、盗作したものだ。」と主張し始めました。当時、アメリカの白人社会では、人種差別は、当たり前だったので、黄色人種の活躍に、強い拒否反応を持つ人が多かったそうです。そのため、『エ...

昔話(146)-高峰譲吉(15)-アドレナリン(2)

アメリカ合衆国のジョンズ・ホプキンズ大学の『ジョン・ジェイコブ・エイベル』は、血液がアミノ酸を含むことを発見し、腎臓病の治療に用いられる透析への道を、開いた事でも知られています。『エイベル』は、『高峰譲吉』と『上中啓三』から少し遅れて、ヒツジの副腎から、「アドレナリン」と同じ物質を分離し、「エピネフリン」と名付けました。ちなみに、「アドレナリン」は英語、「エピネフリン」はギリシア語で、副腎という意...

昔話(145)-高峰譲吉(14)-アドレナリン(1)

1895年に、『ナポレオン・キブルスキー』によって、動物の副腎から、血圧を上げる効果のある物質を抽出しました。「nadnerczyna」と名付けましたが、これは、「アドレナリン」以外に、その他のカテコールアミンも含まれていました。1900年に、『高峰譲吉』と助手の『上中啓三』は、シカゴにある食肉処理場から、廃棄されるウシの副腎から「アドレナリン」を発見し、1901年に、『上中啓三』が、世界で初めて結晶化に成...

昔話(144)-高峰譲吉(13)-タカヂアスターゼ(5)

1902年、『高峰譲吉』が、アメリカから日本へ一時帰国した時、神戸港大桟橋に接岸した客船ハンブルク号で、横浜へ向う間、『塩原又策』と初めて、直接、話をしました。航海中、『塩原又策』は、「タカヂアスターゼ」の効果に驚いた事、良い商品を任せてもらって、とても感謝している事、販売ルートを拡売するために行った、取り扱う薬局を増やすための飛び込みセールス、色々なプロモーション活動、医家への働きかけなど、話は...

昔話(143)-高峰譲吉(12)-タカヂアスターゼ(4)

1899年に、第1回万国商業大会に、日本代表として出席した『大谷嘉兵衛』は、アメリカ合衆国大統領『ウィリアム・マッキンリー 』と面会し、日本茶への高い関税についての撤廃を陳情し、太平洋の海底に電話線を引くことを提案すると、参加者の万雷の拍手を受け、アメりカの新聞に大きく報じられました。そして、日本のみならず、アメリカでも有名人になった『大谷嘉兵衛』は、『高峰譲吉』を訪ね、「自分の所で修行した『塩原...