日本を守るために命をかけて戦った人々(9)-特攻を拒否した芙蓉部隊隊長『美濃部正』少佐(1)
- 2018/12/04
- 05:05
夜襲戦法を思いついたのは、
マラリア治療をしていた時でした。
『美濃部正』少佐は、
1942年7月より、小松島空分隊長を拝命し、
教官として、海軍水上機搭乗員の練習生に、
水上機の実戦運用の訓練をしていました。
1943年10月より、
ソロモン諸島方面に展開する
第983海軍航空隊の飛行隊長に、着任しましたが、
1944年1月、マラリアに感染し、
野戦病院に入院しました。
そこで、
『美濃部正』が、
教官をしてた時の教え子と偶然、再会したのですが、
教え子は、
激戦で活躍が出来なかったので、
ものすごく落ち込んで、
精神的に弱り果てていました。
その時、教え子が、
「水上機に爆弾と機銃を付けて、
活躍したい。」と懇願したそうです。
『美濃部正』は、
教え子の願いを叶えてあげたいと思いました。
そして、
激戦による酷使で、
消耗しきっている陸上機の搭乗員と比較して、
水上機搭乗員は、偵察任務が主体だったので、
消耗程度が軽く、操縦技術も高いので、
低速の水上機での攻撃は困難だけど、
水上機搭乗員を、
格段に速度や航続距離に優れる零戦などの機体に搭乗させて、
夜間に出撃するという夜襲戦法を、考えたそうです。
『美濃部正』は、夜襲戦法を、
上層部に上申しましたが、却下されました。
でも、
『美濃部正』は、夜襲戦法を諦めきれなかったので、
1944年1月29日に零式水上偵察機に、爆弾を搭載させ、
敵の航空基地「ニヤイ飛行場」の夜間爆撃を命じました。
すると、夜間攻撃は、大成功したので、
夜襲戦法に自信を深めたそうです。
1944年2月25日より、
『美濃部正』は、316飛行隊長に着任しました。
戦闘316飛行隊には、
『美濃部正』の希望通り、
熟練水上機搭乗員多数が、配属されました。
そして、『美濃部正』は、
夜間戦法をスムーズに出来るように、
構想通りの猛訓練を行っていましたが、
司令の『八木勝利』中佐が、
「グラマンとの空戦をやってくれ。」と要求したのに対して、
『美濃部正』は、
「夜間攻撃隊の目標は、空母です」と譲らなかったので、
316飛行隊隊長を解任されました。
その後、
『美濃部正』は、マラリアの再発で苦しんだりしましたが、
治療で落ち着いたので、
1944年7月に、第一航空艦隊901飛行隊長に異動となり、
フィリピンに着任しました。
ちなみに、
マラリアの症状は、
無症状から死に至る重いものまで様々で、
初期症状が治まって数カ月〜数年後に、
再発することがあります。
自分が動物園で、ペンギンのマラリア治療をした時は、
かなり苦労しました。
ペンギンの採血は難しいのですが、
沢山治療したので、
採血が出来るようになりました。
第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』は、
1944年11月に、『美濃部正』を、呼び出しました。
第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』は、
「輸送艦隊の脅威となっている、
コッソル水道のアメリカ軍飛行艇と
PTボート基地を、
夜間、月明かりの中で、攻撃してくれ。」と命じましたが、
『美濃部正』が、
「月光での基地攻撃は、困難です。」と反論すると、
第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』は、
「それでは、特攻ではどうか?」と言うと、
『美濃部正』は、
「特攻以外の方法で長官の意図に副えるならば、
私は、それに全力を尽くします。
第一、特攻には指揮官は要りません。
私は指揮官として、
自分のやり方に自信を持っています。
私は、部隊の兵の使い方については、
長官のご指示を受けません。」と安易な特攻依頼を拒否しました。
短気な所がある『大西瀧治郎』でしたが、
怒ることもなく、感じ入る事があったので、
「それだけの気概と抱負をもった指揮官であったか。
よし、すべて君に任せる。」と『美濃部正』の目をじっと見ながら言って、
特攻しないことを容認しました。
その後、
『美濃部正』の部隊が、夜間戦法で成果をあげていると、
1944年11月25日、
第1航空艦隊司令長官『大西瀧治郎』は、
『美濃部正』を司令部に呼び出し、
「君の所の夜襲隊はよくやっている。
夜襲隊をさらに強化するため、
至急内地に帰って夜襲隊を錬成し、
来年1月15日までに、フィリピンに再進出せよ。」と命じました。(続く)
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